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狐を捕らえる

海辺に住む友人と電話で話していると、カモメの鳴く声がバックに聞こえました。私が嬉しそうにそう言うと、彼女は「イヤな生き物」と答えました。海辺の住人にとってカモメは厄介な存在です。それと同じように、ロンドンの住人はキツネを疎ましく思います。私にとって、キツネは、そこらをうろついて臭い糞を残していく動物です。

旧約聖書の雅歌に「狐」が登場します。雅歌は夫婦の愛を表現していますが、それは神と神の民の愛だと解説する学者もいます。花嫁は「狐や小狐」を捕まえてくれるようにと夫に頼みます(2:15)ぶどう畑の実を求めて柔らかい木を引っかき回すかもしれないので、そのように頼んだのです。花嫁は結婚生活を楽しみにしていて、害獣に邪魔されたくありません。

では「狐」は、どのように神と私たちの関係を邪魔するのでしょう。私の場合、色々と引き受けすぎてしまうと、圧倒されて不機嫌になります。また人のいさかいを目にすると、失望したり怒ったりしがちです。私は図らずも「狐」を招き入れてしまったり、忍び込ませてしまったりしたとき、その影響を最小限にしてくださるように主に願います。すると、神の優しい臨在と導きを感じ、神に対する信頼と愛が増していきます。

あなたは自分を神から引き離そうとするものに対して、どのように神の助けを求めていますか。

コシの勇気

トーゴ共和国のモノ河で洗礼を待つ間、コシは古びた不気味な木像をおこしておいた火に投げ込みました。彼の一族はずっとこれを拝んできたのです。これに最上の鶏をささげることは、もう二度とありません。

お金

若かった頃、仕事というより神の召しを感じて働いていたのに、別の会社から声をかけられたことがありました。その会社に移れば給料は格段に上がり、家族に経済的な恩恵を享受させられることは確実でした。しかし問題は、今の仕事が大好きで召命を感じていたので、転職について考えたことは無かったのです。ただ、お金が…。

美しく描く神

ネサワルコヨトル(1402-1472)は、ヨーロッパ人の到来前、メキシコの一地方を治めていました。彼の名は「飢えたコヨーテ」という意味ですが、これには深い含みがあります。彼が書いた詩に、霊的な飢え渇きが表されているからです。「私が礼拝する神々は石の偶像だ。話しもせず感じもしない…。大きな力を持った知られざる神がおられ、そのお方は宇宙の造り主だ。このお方だけが苦しむ私を慰め、悩む私を助けることができる。このお方に私の助け主、守り主になっていただきたいものだ。」

奇跡の物質

グラファイト(黒鉛)の派生物を、CNN放送は「奇跡の素材」と呼びました。私たちの将来を大きく変える可能性があるからです。 「グラフェン」は原子一個分の厚さなので、この三次元世界に現れた、まさに二次元の物質だともてはやされています。ダイヤモンドよりも硬く、強度は鋼鉄の100倍以上、電気伝導率は銅の千倍以上、そしてゴムよりもしなやかです。

誤った愛

作家であり講演家でもあるマーティン・リンドストローム氏は、今や携帯電話は、人々にとって親友同然だと考えています。その理由は、MRIを用いた実験結果です。自分の電話が鳴るのを聞いたり見たりすると、脳細胞が反応します。このとき、活発に活動する脳細胞は、愛情や思いやりの感情と関連した部分だといいます。これは「あたかも、恋人か家族といっしょにいるかのような状態」と、リンドストローム氏は述べます。

道に迷う

昨年の秋、私の町を通る高速道路で畜牛のトラックが横転し、道路が数時間通行止めになりました。牛たちは逃げ出し、道路を横切って徘徊していました。牛がさまよう姿をニュースを見て、私は最近読んだ出エジプト記32章を思い出しました。神を離れてさまよう民が金の牛を造った、あの話です。

現代でも真実

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記9-11
◆ マタイ15:21-39
聖書のみことば使徒17:16-31

 
アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。―使徒17:16

アイルランドのダブリン市にあるチェスター・ビーティ図書館には、古代の聖書の断片が数多く収蔵されており、紀元2世紀のものもあります。

スピリチュアル・ ジャーニー

1年で聖書を!
◆ 詩篇4-6
◆ 使徒17:16-34
聖書のみことば 使徒17:22-31

 
あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、―Ⅰテサロニケ1:9

モーセを通して起こされた神の奇跡の数々は、パロの神々に挑戦するものでした。ところが昔、「唯一神」の信仰を広めたパロがいました。アクエンアテンです。彼は、太陽が地上に生命を与える偉大な神だと唱えました。太陽神アテンを表す絵文字は、光線を発する円盤でした。この信仰は聖書の唯一神に近づくものでしたが、偶像崇拝の域を出てはいませんでした。